2012年8月7日火曜日

1. 2つの円とコミュニケーション

1.1  日本人の2つの円


 最近本屋に足を運ぶと、最も目に付くのが自己啓発本である。質問力とか、コメント力とか、コミュニケーション力など。それを手に取るのは20代などの若年層ばかりではない。30代でも40代でもそして50代でも、そうした本を手に取る人は多い。
 最近なぜこれほどまでに、コミュニケーションに関する本が多いのだろうか。それはあまりにも、物事が「伝わらない」ことが多いということなのだろう。伝えられない、という主観的な感想を持っている人も多いと思う。伝わらないとは結果である。伝わらないという結果しか起こらないコミュニケーションの現場、職場、会議。社会人になって、半年もすれば、ほとんどすべての人がそういう経験を持つことだろう。それはコミュニケーションの力というものが、年々下がってきていることが原因なのだろうか。私はそうではないと思う。
こうした書籍を読み、そうしたセミナーに参加しているのは、40代以上の人も数多い。そうした人達が突如コミュニケーションスキルをなくしてしまったとは思えない。むしろ社会という荒波に揉まれて、上昇していると理解するほうがよいだろう。しかし、それでも「伝わらない」、「なんでこの間の話の結果が、こうなるんだ」と憤ることが多い。それはなぜか。コミュニケーションを通して求められる結果の質が変わってきているためではないか。

 グローバル化やIT化によって、ビジネスのスピードが加速してきている。つまり、いまコミュニケーションを通した結果として求められることは、「より早くより正確に伝えなければならず、そしてより効果的に低コストで伝えたことが遂行される必要」が現在のビジネスの現場で起こっているためではないだろうか。
情報がネットワーク化されることで、世界中の詳細な情報が手に取るように把握できるようになった。インプットとして活用できる情報は無限大にあると言っても良い。パソコンの普及やプリンタなどのアウトプットデバイスの高度化によって、無限の情報を活用した戦略を資料化することも容易となってきた。
昭和の時代は、限られた情報に基づいて、戦略を描いていた。戦略も手書きやワープロなどの場合は、ビジュアルに訴えることができず不十分な状態で説明するしかなかった。そうした場面では、コミュニケーションは曖昧さを埋める役割をした。特に日本の場合、高度経済成長によって社会全体のパイは膨張して行った。お互いの理解がたとえ曖昧なままだとしても、成長はなんなく遂げることができた。成長を分かち合うことができた。

 今の時代は、成長は奪い合うものとなっている。努力すれば誰しもが無限の情報へとアクセスすることができる。インプットする情報をどんどんと詳細化することも可能である。詳細化された情報に基づいた戦略は緻密さを極める。ゆえに曖昧なものを埋めるための手段としてのコミュニケーションは要をなさない。
加えてパソコンの普及によって、誰もが図やグラフなどビジュアルに訴えた資料を活用して、伝えようとしている。昔であればデザイナーの仕事の領域を、ごく一般の社会人が毎日のように対処しているのである。
 コミュニケーションを語る際、日本人のひとつの特性について確認する必要がある。日本人は物事を標準化し、それを文章として残すことが極めて苦手な民族なのではないだろうか。和を以って尊しと為す。曖昧さを持たせることによって、人と人との関係性にうまくクッションを挟んできた。
標準化とは、複雑な物事を体系立てて整理し、誰からも理解しやすい様式にすることを指す。文学的なものである場合、標準化することによって個性が失われる場合もあるため、すべての物事を標準化する必要はない。しかし、当然標準化するべきところについても、やはり日本人はそれを避けて通るきらいがあるのではないだろうか。

21世紀というIT社会において最も特徴的といえるのは、企業の在庫管理、物流管理、会計管理、人事管理、さらには給与管理などを処理する情報システムである。ある程度の規模の企業となれば、こうしたことを処理する情報システムを導入していない企業はない。情報システムを構築するには、プログラムを書く必要がある。ITという0と1から構成される最先端の領域ではあるものの、このプログラムを書くという業務は極めて属人性が高く、生産性を向上させることが難しいタイプの仕事である。一方、自動車やテレビの組み立てについては、その業務が細かくマニュアル化されている。ライン生産方式やセル生産方式など生産性を向上させる様々な仕組みが開発されている。時間あたりの生産台数を管理することも可能となっている。一方で、システムを開発するプログラミング業務は未だに時間単価で費用が発生する。米欧では、そうした業務をマニュアル化、標準化することは困難だと判断した。その対策として、作る対象としてのシステム自体を標準化するアプローチを取っている。そうすることで、人が担う業務を体系立てて、生産性の向上を図ろうとしている。

 ツーとカーという言葉がある。これはすべてを語らずとも、理解し合える間柄という意味合いで使われる。日本では、ほぼすべての国民が同じ教科書(同じ検定を受けたという意味合い)を利用して教育を受ける。中学までは義務教育であり、高校への進学率も極めて高い。大学も全入時代といわれている。99%の人が同じレールに乗り、それを進んでいく。そういう確固たる社会基盤と、すべての人が日本語という特殊な言語を話す状況から、日本人同士の間の共通認識は極めて大きな状態になっている。
例えば、典型的な二人の日本人の間に存在する共通認識というものを、二つの円を用いて説明してみたいと思う。一人の人の考えや価値観を丸い円で描くとする。そして、もう一人の丸い円をそこに並べると多くの部分が重なり合う状態となる。

重なり合わない部分の面積の方が、重なり合う部分の面積よりも小さい。

こうした暗黙の共通認識が大きくある状態、それこそが典型的な日本人同士の感覚だろう。


ゆえに、ツーカーという関係性が成り立ちやすい。また、重なり合わない部分、つまり理解していない部分が小さいからこそ、その穴埋めのために取られることが、コミュニケーションであり対話である。日本人のコミュニケーションの取り方は、その重なり合わない部分を埋めようとするところから始まる。
 今、多くの人がコミュニケーション力に自信がなく、その向上のために思い悩んでいる。しかし、元々日本人のコミュニケーション力は十分に高いのだと思う。重なり合わない部分を理解し合えるほどのコミュニケーション力を誰しもが備えているのではないだろうか。

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