2012年8月7日火曜日

1.2 グローバリズムと2つの円

2つの円の例えを最も他民族な国家のひとつである米国で考えてみる。おそらく典型的なある二人の米国民にとって、重なり合う部分というのは、極めて小さい結果となるだろう。そういう場合が極めて多いと思う。アメリカには、白人、黒人、アジア人、イスパニア人など多様な民族の人がいる。ひょっとしたら、まったく重なり合わない人とも、頻度高く遭遇してしまうのかもしれない。そういう社会を米国の人達は生きているわけである。
個性というもの、人と違うことを賞賛する教育現場においては、むしろいかに人と違う円を持っているのか。そういうことを常に意識しながら過ごしているのではないだろうか。そういう彼ら彼女らにとって、分かり合うためにする手段は、コミュニケーションによる対話ではない。それは彼らが2番目に用いる手段である。
よく日本人はアメリカ人に比べて自己主張する意識が低く、コミュニケーション力が低いと言われる。しかし、日本人とアメリカ人との差は、コミュニケーション力の差ではなく、何を埋めるためにコミュニケーションという手段を用いるのかという、目的意識の差なのである。

共通理解できている領域、つまり円が重なり合う部分が、極めて小さいアメリカ人同士がお互いに理解するために取る最初の手段はコミュニケーションではない。彼らが最初に最も時間をかけて整備することは、理解する必要がある事柄を標準化することである。
ある問題をお互いが共通理解し、その対処法を議論しようとするとき、アメリカ人は、その問題をブレークダウンし構造化する。例えば5つの小さな問題に構造化する。そしてそれらを文章化し、お互いにその問題に対する理解が同一かどうかを確認し合う。仮にその中で理解に齟齬がある場合は、さらに問題をブレークダウンし、文章化を行う。一つ一つの小さな問題が、誤解のないレベルにまで細分化される。それゆえに、お互いに誤解のない理解が可能となる。
アメリカ人は決して日本人に比べてコミュニケーション力が高いというわけではない。人と人とが対話によって得られる共通認識の難しさを知っている。それゆえに、共通理解されていない問題に対しては、誤解のないレベルにまで、問題を細分化・簡略化する道をとるのである。細分化され文章化された問題は、説明も簡単となり、お互いの共通理解もより早く進む。


共通認識である丸い円の重なりが極めて小さいからこそ、その重なりを拡大するために、コミュニケーションを活用するのではない。重なりを大きくすることは困難である。それをコミュニケーションによって補うことはあまり現実的ではない。であるから、彼ら彼女らは理解されていない事柄を、誤解のないレベルにまで細分化し、誰もが同じ理解ができるものへと変質させ標準化させることに、まず心血を注ぐ。
そうすると、次に取るコミュニケーションという手段では、ある問題を進めるか取りやめるか、というシンプルな掛け合いを行うに過ぎないのである。彼ら彼女らにとって、コミュニケーションを取る際の目的は、その問題をどうするか、意思決定をすることなのである。日本人は物事を決めないと揶揄されることをよく耳にするのは、そうした目的意識の差が一因であろう。

 日本人同士は、変に丸い円の重なり具合が大きい。重なっていない部分の方が大体において小さい。そして、コミュニケーション能力は高い。それゆえに、最初にとる行動は、コミュニケーションを駆使して、重なり合っていない部分を小さくすることに努力するのである。それはアメリカ人にとっては極めて難しい問題を対処しようとしていることに写る。
 コミュニケーションを取ることによって得ようとする結果でいうならば、日本人のほうが遥かに高度なことを日々行っているといえる。重なり合わない部分を補うために、曖昧な話し言葉によるコミュニケーションでそれを埋めようとする。それは、遭遇するたびに毎回異なるコミュニケーションが必要となる。いつまでたっても、重なり合わない部分は残る。いつまで経っても曖昧な部分は残ることとなる。
 日本の経済が成長している段階では、多少の曖昧な部分は許容されてきた。曖昧な部分が残ろうとも、市場全体のパイが拡大しているさなか、その微妙な差は結果に対して深刻な影響を及ぼすことは小さかった。今盛んにコミュニケーション能力が低いと叫ばれているのは、お互いの理解がない部分をほぼゼロにするための、コミュニケーション力が低いと指摘されているのである。
 そしてお互いの理解がない部分をゼロにするために取る方法の第一は、先にも述べたとおりすばらしいコミュニケーションをすることではない。いかにすばらしいコミュニケーション力を持っている人であれ、いかにわかりやすく説明できる人であれ、ただ、話すということだけによって、誤解が残っている部分、つまりは重なり合っていない部分を正確に埋めることはほぼ不可能である。
現在、重なり合わない部分を理解し合うことを、ごく短時間で行うことが求められている。昔ながらの手法でいうと、その埋まらない空白を埋めるために、来週の金曜日に腹を割って話し合おうと、部長同士で飲みに出かける時間的な余裕はないのである。今、この場で、この会議の時間内でそれは達成されなければならない。



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