2012年8月9日木曜日

3.7 伝わった瞬間



ビジネスの現場では膨大な量の情報を日々「話し終えて」いる。残念ながら、ほとんどの情報については単に「話し終えた」だけに留まっている。伝わってはいない。「伝える」ことと、「伝わる」ことの間には、深い谷が存在する。

 親身になって話を聞いてくれるような相手であれば、ただ話をしさえすれば伝わるということもあるかもしれない。医療カウンセラーなど、悩み事から笑い話まで、どんなことであれ耳を傾ける。
それは彼ら彼女らが、それを生業にし、そこで得られる話を咀嚼することで話し手に言葉を返すところに付加価値のある仕事をしているためだ。
しかしながら、ビジネスの現場や一般社会ではそうでない場合が多い。私たちが話す言葉を、全身全霊を持って聞いてくれる人など、ほとんどいないと思っていいのかもしれない。
よくある笑い話で、夫婦の間でもこういうことはある。夫はテレビを見ていて、その横顔に妻が今日あったことなどを話しかける。上の空で夫が相槌を打っていると最後には、「ちょっと聞いてるの」となる。
それから3日後に夫から、「こんなことをしてみたらどうだ」とその時妻がしきりに話していた内容を口にする。それに対して妻は、「こないだ言ったでしょ」というと、夫のほうはそうだったかなとなる。
夫婦の間ですら、「伝わる」ということはなかなかに難しい。いや、中には夫婦の間でこそ難しいという読者の方もいるかもしれない。
 ビジネスの現場で、社会生活を送る上で、私たちは資料なり言葉なりで様々なことを伝えていかなければならない。相手の意にそぐわないことであっても、それをやり遂げなければならない場面が多々ある。
何度も何度も同じ事を繰り返し話してきているにもかかわらず、伝わらない。覚えてもらえていない。そういう経験を持っている方は多いことだと思う。

 伝わったと思うべき瞬間とはどのようなことをいうのだろうか。多くの人が抱いている誤解は、わかりやすい説明ができたとき、伝わったと勘違いしてしまうことだ。論理的な説明ができたとき、伝わったと勘違いしてしまうことだ。それはまだ単に、「話し終えた」だけにすぎない。
 それでは伝わった瞬間とはどのようなものだろうか。私はそれをたった一言で表現できると考えている。「相手が同じ話を始めたとき」である。
私がかつて話した話をさも自分の考えであるかのように、相手が話し始めるときがある。それこそが、伝わった瞬間なのである。
その表れは、資料の場合もあるだろう。これまで何度となくあなたが作成し、相手にプレゼンテーションを行ってきた。何度説明を繰り返したとしても、あまり関心を示さずに、毎回説明をするたびに、初めて聞くような対応をする。
そうした相手が、いつしかあなたがかつて作ったことがある資料に酷似した内容の資料を作成し、あなたに向けて、もしくは他の第3者に向けてプレゼンテーションを行う。
このような現場に遭遇したとき、その瞬間がまさに伝わったと呼ぶべき時なのだ。怠け者の上司の中には、あなたが作成した資料をそのまま活用して、プレゼンをする人もいるであろうが、当然ながらそれは伝わった瞬間ではない。あなたの考えを伝えてきた相手が、相手の頭の中で真っ白な状態から、考えをまとめたときに出来上がった資料が、あなたがかつて説明した資料に酷似してこそ、初めて伝わったという状態と呼べるのである。

会議におけるホワイトボードでもその伝わるという瞬間を見出すことはできる。私は仕事柄毎日のようにホワイトボードを使う。自分の考えを伝えるために。複数の会議参加者から出てきた意見をまとめるために。時には表でその考えを表したり、時にはX軸とY軸など2つの軸を利用して、分類わけなどすることで意見をまとめていく。単純に出てきた意見を箇条書きのように書き連ねる場合もあるだろう。
ホワイトボードは、ボタン1つでボードの書かれた内容をプリントアウトしてくれるプリンタが通常備え付けてある。会議終了後には、通常会議参加者全員に、プリントアウトされた紙が配られる。
そうした経験がある方は、その場面を思い返してもらいたい。例えば3日後、いや翌日でもいい。ホワイトボードに書かれた内容を、プリントアウトした紙を見ることなく言うことができるかどうか。
おそらく10人中9人の方は、ホワイトボードの内容のほとんどを忘れ去っていることだと思う。自分が述べた部分は当然ながら覚えていたとしても、他人の意見については、ほとんど記憶に残っていないことだと思う。
プリントアウトした紙を見返すことで初めて、他人の意見の記憶が蘇ってくる。お分かりのことと思うが、これはまったく他人の意見が伝わっていない状態である。ただ、耳にしたというレベルにすぎない。
ホワイトボードを活用したそうした会議が日々続いている。会社内の会議とは残念ながらそうしたものである場合が多い。そうした場面における「伝わった」と思える瞬間とは、次のようなものとなる。
とある会議の最中に議論を戦わせていたときに、誰かがおもむろに自らの意見をホワイトボードに書き出したとする。表であれ、X軸やY軸などの軸をつかったものであれ、単なる言葉であれ、それは何でも構わない。
その内容がかつてあなたが話した内容であったり、あなたがかつてホワイトボードに書いたことがある内容に酷似していることがある。それこそが、「伝わった」という瞬間なのである。 昨日の中刷り広告を覚えているだろうか。そう、私たちはまったく覚えていないのである。その相手はかつてあなたが同じような内容のものをホワイトボードに書いたことなど忘れてさっている。
そのような場面に遭遇したときに、「それは以前に私が述べたことじゃないかなどと憤慨するべきではない。むしろ大いに感動するべきときなのだ」。
あなたは、相手に影響を与え、相手の頭で相手に考えさせて、その結果あなたと同じものに行き着いた瞬間なのである。さらには、相手の考えを自分と同じ考えに変えたとみるべきである。

伝わるということの究極の状態は次のようなことだと思う。仮に、あらゆる情報を忘れ去ったとしても、その人の価値観や仮説によって導き出される結論が、あなたがかつて話した内容と酷似した状態となる。
これはもはや話が伝わったということを飛び越えて、伝えたかった内容そのものが、相手の価値観そのものにまで昇華したとも捉えることができるだろう。これが目指す姿なのではないだろうか。


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