2012年8月9日木曜日

3.3 すべての人はインセンティブの奴隷



 相手のことを理解しているつもりでも、プレゼンテーションによって相手にさせたいことが明確であるとしても、なぜか伝わらないときがある。動かないときがある。社会人にならなくとも、ほとんどすべての人が人生においてこう感じたことがあるのではないだろうか。なぜそうなってしまったのか。何が足りなかったのだろうか。説得力か。論理力か。資料の出来映えか。事前の根回しか。最も留意するべきは、インセンティブ(incentive)だと思う。
 インセンティブとは、「人の意欲を引き出すために、外部から与える刺激」のことを意味する。断言してもいいだろう。すべての人は、インセンティブの奴隷である。
何かを為すとき、それによって得られる対価や報酬が期待するものかそれ以上でなければ、人は動かない。これほどシンプルかつ根源的な法則はない。このことを説明されれば、おそらくそれを否定する人はいないだろう。それにも関わらず、これを忘れた行動を取る人が非常に多いのが現実である。
 先に述べている分析も論理展開も完璧な資料しかり、構造化されたわかりやすいプレゼンテーションしかりである。この完璧な分析結果から導き出される結論は、どう考えてもこの資料に書いてある通りである。それにもかかわらず、なぜそれをしようとしないのか。そういう憤りを感じたことがある人は多いことだと思う。
そうしたプレゼンテーションを聞いて、その通りに人が動くはずがないのである。おそらく普段ビジネスの現場で完璧な分析と考えられているもののほとんどは、聞く人が聞けばあたりまえの内容なのだと思う。完璧な論理展開で説明されるまでもなく、そうしたことは理解できる。敢えて説明されるまでもなく、聞く相手は理解はしているのである。それでもなおかつ、動かない理由がそこにはあるはずだ。動かないということが、その人にインセンティブを与えているのである。
動かない方向にインセンティブが働いている人に対して、さらに完璧な分析と論理展開を備えた資料を見せようとも、いかにわかりやすい構造化されたプレゼンテーションで説き伏せようとも、通じるわけがないのである。そうした相手を動かすために必要なプレゼンテーションは、動かない方向に働いているインセンティブを、どうしても動かなければならないインセンティブに変えてやることなのである。
 報告資料を出した結果、プレゼンをした結果、期待する効果が得られないときにやることは、資料をさらに完璧に仕上げることではない。プレゼンテーションをさらにわかりやすくすることではない。相手がどのようなインセンティブの基に日々の行動に時間を費やしているのか。その心理を探ることなのである。
 例えば、現在のビジネスの営業現場では毎週のように営業進捗会議を開催している会社が多いことだと思う。PDCAサイクルを回していることと思う。Plan(計画)通りに、DO(実行)しているかどうか、それをCheck(確認)し、確認した結果芳しくない点については、改善のためのAction(改善策)を行うというサイクルである。
しかし、果たして現在のそれは本当に機能しているのだろうか。営業マンの主観的な報告に終始してはいないだろうか。歴戦の営業マンは、結果というものをいかようにでも良く見せることができるものである。できる営業マンほど悪く言えば取り繕う説明をうまくやってのける。営業マンが報告する内容は客観的な事実だろうか。他の人が同じ分析を仮にしたとしても、同じ結果が得られるだろうか。人間は事実を突きつけられて、初めて現実を知る。突きつける事実は客観的で公平である必要がある。そして、その事実を突きつけることを事前に周知しておくことも重要だ。

受験シーズンともなると、電車の中でよく次のような光景を目にする。表に英単語を書き、その裏側にその英単語の意味を日本語で書いた小さなカードの束をめくっている高校生だ。高校生にとってどの大学に行くかは自分の人生を決める。最近ではどこの大学に入ったところで人生は約束されないと感じているのが一般の社会人だが、少なくとも高校生はそう信じている。その彼ら彼女らにとって、英単語の意味を一つ一つ、一文字一文字、確実に覚えることには、どうしようもないほどのインセンティブを感じているのだ。だから彼ら彼女らは毎日毎日、通学電車の中で退屈でどうしようもない作業を繰り返すのである。

それに対してどうだろうか。私たちが作ったプレゼン資料をプリントアウトして、毎日の通勤電車の中で一文字一文字読み込んでくれる人は100人いたら何人いるだろうか。おそらく1人いたら幸せなほうだと思う。社会人はほぼすべての人が、毎日毎日「忙しい」と思っている。そんな1つの資料に対してそこまで固執することはそうそうありえない。ましてや、昨今ではコンプライアンスの関係で、公共の場で社内資料を広げることを許す会社もない。社内資料を印刷して自宅に持って帰ることを許してくれる会社も最近は減っている。
携帯電話はいつでもどこにいてもアクセス可能で、ウェブもメールもさらにはパワーポイントの資料も見ることができるようになっている。社会人は常に情報に追われ続けているわけである。1週間の間に目の前を通り過ぎる資料は100枚、いや多い人では1000枚を超えるかもしれない。1週間の間の会議の回数は5回、多い人では30回を超えるかもしれない。会議とは、常になにかしらの意思決定をする場ではあるはずが、ただ情報を共有するだけで終わってしまうような会議も多い。
そういう日常の中で、一言一句を覚えることに対してインセンティブをまったく持っていない人に、ある物事をわからせたい場合にとるべき手段とはなんだろうか。解決策のひとつは、与える情報を限りなく少なくすることである。余分な情報を加えないことである。

 人を動かす場合、人に伝える場合、そのことに対してどうしようもないほどのインセンティブを感じさせなければ何も始まらない。
あらゆる人間は、あらゆる場面でインセンティブの奴隷である。それをしなければ自分の給料が減ってしまう、自分の存在価値がなくなってしまう、自分の人生が危うくなってしまう。そう思わない限りは、人は動きはしない。
こういう問いかけをしたとき、あなたはどう答えるだろうか。これからあなたのプレゼンを聞く人は、あなたの作成した資料の一文字一文字をすべて読み込むことに対して、「どうしようもないほどのインセンティブ」を感じているだろうか?
これに対して私は断言できる。ほぼすべてのケースにおいて、そんなインセンティブを持っている聴衆はいない。びっしりと書かれた文字を一言一句逃さず読み込もうなどと思っている人はいない。聞く人のインセンティブはただひとつだ。自分が知りたいことを、知りたいだけだ(もちろん、プレゼンにその内容がなければならないわけだが)。


社内の役員などの上長や、顧客向けのプレゼンテーションに挑む場合、プレゼンをする人間にとってのインセンティブとは何か。役員に良く思われたい。役員からこいつはやるな、賢いなと思われたい。顧客から満足を得たい。顧客にすごいと思わせたい。それがごく一般のインセンティブだと思う。そして誰しもが不安を抱える。自分はうまくやれるだろうか。そしてその不安は文字数となって現れる。不安を解消するために、自分がこれまで考えてきた事柄すべてを資料の中に入れ込んでいく。資料のページを1枚書き加えるたびに、不安の量が減少していく。いつしかプレゼン資料は分厚い報告書へと変貌する。自分が考えてきたことはすべて書ききった。その中にはかならず役員が自分のことをすごいと思うものが入っているはずだ。その中には顧客が自分のことをすごいと思うものがかならず入っているはずだ。それはおそらく5ページと10ページと17ページの23ページのあの部分と、30ページのこの文句と、、、。
人は資料を読みたいように読むのである。人は資料を知りたいところだけ読むのである。人は資料を都合の良いように読むのである。あなたが膨大に作った資料の中から、自分が読みたいところ、知りたいところをどうしても探し出したいというインセンティブをもって、資料を読んでくれる人はいない。数ページめくってみて、自分が知りたいところがないようならば、知りたいことを知るために質問が来るはずである。その場合に、それは13ページに書いてあります。そういう返答ができることは決してすばらしいことではない。そういうページが用意されていたことは決して成功とはいえない。まさにそういうページだけが用意されているような状態。それが目指す姿ではなかろうか。

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