2012年8月7日火曜日

1.5 重なり合わないところにいる日本


グローバリズムというと、低価格化や高効率化という言葉が浮かぶ。例えば欧米の多くの企業がコールセンター、給与計算、課金処理、そしてクレーム処理などの業務をインド企業へ委託している。BPO(ビジネスプロセスアウトソーシング)というものだ。その金額は2008年の1年間で約4兆円にも昇り、インドのGDPの4%を占める規模となっている。こうした業務がインドに集中する背景には、人件費コストが欧米諸国の10分の1程度であり、インド人は英語を扱えることが大きな要因となっている。

日本企業もほぼ同様の理由で、多くの業務を中国の上海や大連の企業へと委託している。インドと違って、中国には日本語を話すことができる人材が30万人近くいるためだ。人事の給与計算、キャリアパスデータ管理、経理交通費精算処理、総務におけるリース車輌管理などのマニュアル化できる作業はすべて中国へ委託可能だ。大連のアウトソーシング請負会社へ移管すれば、コストは3分の1にも10分の1にもなる。
乱暴な言い方をすれば、中国に移管できる業務しかできない日本人の社員は不要となる。しかし、即解雇というわけではない。中国には移管できないもっと付加価値の高い業務を探索する必要が出てくるわけだ。日本人にしかできない業務、自分にしかできない業務とは何なのかを問い直さなければならない。常に付加価値のある業務を追求することは、社会で給与をもらう人間の宿命である。

 NHKスペシャルの「人事も経理も中国へ」で、大連のあるアウトソーシング会社が紹介されていた。その会社は、大連への業務移管のために、日本の顧客企業に1人の社員を送り込む。20代の女性だ。彼女の仕事は、移管する業務のマニュアルを作成することだ。業務がマニュアル化されれば、大連に控えるどのスタッフがその業務を行おうとも、同じ効率が達成できる。
彼女は昼間は顧客に常駐し、移管する業務の内容を必死に覚え、夜は自宅で業務マニュアルを日本語によって作成する。マニュアルは数百ページにも及ぶ。誰が読んでも、同じ業務ができるようにと、徹底的な工夫が凝らされたマニュアルだ。彼女はそのマニュアル作成のために、CASIO製の電子辞書を買って日本に来た。その電子辞書は彼女の「1か月分の給与に相当する」という。もちろん自腹で購入したものだ。
彼女はおおよその日本語はマスターしている。それを支えたのは大連での大学生活である。その大学への学費は、地方工場で働く父と母の月給のほぼ全てで賄われた。彼女は稼げるようになって、早く故郷の両親に仕送りをしてあげたいと、「目を輝かせて」NHKのインタビューに答えていた。あらゆる業務は国境を越えていく。低コストでかつ高効率に処理される場所へと移っていく。

その一方で、世界の最先端都市ニューヨークで次のような風景に出くわす。ベーグルを売るスタンドだ。面積にしてわずか一畳ほどの移動式店舗である。店主はたいていが東欧や南米からの移民の人たちだ。夫婦で運営している店も多い。
マンハッタンを朝歩いていると、1ブロックごとにそうしたスタンドに出くわす。ニューヨークのベーグルは皮がしっかりとした歯ごたえで、中はモチモチのパン生地となっている。卵とベーコンを添えたベーグルが2ドル程度。それと熱いブラックコーヒーを注文しても4ドルでおつりが来る。ニューヨークの寒い朝などにはうってつけのブレックファーストだ。
日本ならば、すぐにコンビニや大手チェーンができてこうした商品ラインナップが脆弱でブランドのないお店は淘汰されていく。もちろんマンハッタンの通り沿いにも、マクドナルド、ダンキンドーナツ、スターバックスなどの大手チェーンストアも見受けられる。それでもなおそうしたスタンドが生き延びるのはなぜだろうか。
これもまたグローバル化によって生まれた社会なのだと思う。トーマス・フリードマンは「フラット化する世界」(伏見 威蕃翻訳)の中で、ネットワーク化と英語によって世界がフラットなひとつの世界へと変貌し、あらゆるビジネスが瞬時に世界中を掛けめぐる。そうしたフラットな世界がもう出現していると述べている。2つの円が重なる部分については、トーマス・フリードマン氏が指摘するように、フラットで高速・高効率な世界が花開いている。それは主に英語という共通理解が可能な単一言語によって支えられている。
情報ネットワークとしてはひとつの世界を形成しつつある世の中ではあるが、当然ながら、重なり合わない円はまだまだ残っている。円が重なり合わない領域には、合理的に考えれば明らかに非効率的な形態のビジネスが多く残ることになる。そうした狭間において成立しているひとつの例がベーグルのスタンドである。ベーグルの注文をやり取りするレベルの英語には事欠かない。しかし、その英語を持ってより付加価値の高い仕事を手に入れるための資格や学位は持ち合わせていない。

日本人、韓国人、中国人をはじめとしてヒスパニア系やイタリア系など世界中の人が英語というたった一つの言語を習得するのに何時間もの労力を費やしている。地球規模で考えた場合、なんと非生産的な活動だろうか。言語と文字の誕生が人類の進化を加速させ、科学を発展させた。それによってもたらされた効率性と、多言語になってしまったことによって生まれた非効率性はどちらが大きいだろう。 
 グローバルの波が世界中を飲み込んでいる。数字という単一言語で交わされオンライン化された金融市場はあっというまに、白を黒に、黒を灰色に変えていく。それも世界中で。インターネットを通じ情報運搬コストが極めてゼロに近い状態となったからだ。一極で起こったネガティブな変動は、その実態が把握されることなく、曖昧な雰囲気に流されて世界に悪影響を広めていく。行き過ぎたグローバル化の姿がそこにあるような気がしてならない。日本の平均賃金レベルの5分の1とも10分の1とも言われる発展途上国においても、先進国並みの業務能力を身に着ける会社がいくつも出てきた。ビジネスの配分が全世界を単位として平準化されていく。私はそういう危機意識こそが、グローバリゼーションだと考えていた。

一方で、先のベーグルスタンドに見られるようにリアルの世界では非高率なものがまだ多く残っている。こうしたことが起こるのは、そこに「言語のギャップ」という溝が存在するためだ。
中国語では、グローバリゼーションのことを全地球と表現する。地球規模で何事も捉える必要があるという意味だ。地球規模で捉えようとしたとき、まだまだ世界には、そこかしこに「言語のギャップ」という溝がある。
現在までのところ、英語の世界ではどのような国同士であれ、多少の円の重なりは存在する。そのため、前述のような業務の配分が全地球規模で可能である。しかしながら、その他の言語においては未だに言語のギャップが大きな溝を作り出している。グローバリゼーションの波もその溝に吸収される。そこにはいやがおうにも非効率な部分が残ることになる。
極めて俗人的な、いかにウェブが発達したとしてもface to faceでなければ解決し得ないような、人間の問題を解くこと、それこそがグローバリゼーションなのではないだろうか。

グローバリゼーションによって2つの国、2つの民族、2つの人が混ざり合う。その結果、ポジティブな意味で、その2つの国は一段低いところで落ち着いていく。一段低い場所で融合が始まる。グローバリゼーションによって世界はそこかしこで、一段低いところで落ち着きつつ、融合していっている。そして融合した場所は、進化することで二段も三段も高い場所へと飛躍する。
近頃の日本という島国は、グローバリズムの狭間に落っこちてしまったかのようだ。日本語という日本人しか話すことができない極めて特殊な言語によってグローバリゼーションという世界の重なりから、取り残されている。
日本という国に関する説明は、ほとんどの場合日本語でしかなされない。まだまだ世界から見れば、日本という国はよくわからない国なのである。日本語という大きな言語の溝が、世界の荒波から日本を守ってくれているのだ。日本を取り巻く世界では、グローバリゼーションに揉まれて嵐が吹き荒れそこを掻い潜った国は二段も三段も次の高みに昇っていく。

1990年代日本のGDPは世界の13%を占めていた。それが2020年には5%程度にまで縮小していくだろう。以前は多くの国が、日本語という溝を乗り越えてでも、日本を理解しようとしてきた。しかし世界の中で5%を占めるに過ぎない国となれば、誰も溝を渡ることがなくなってしまうだろう。世界の人材や世界の富は、日本にかかわりを持たないところで回っていってしまう。
日本人同士であれ、米国人とであれ、韓国人とであれ、常に円の重なりを意識する必要がある。これからの世の中では、どの国の人と相対する必要があるのかは予想がつかない。ただひとつ言えることは、これからの世界を生き抜くために身につけておくべきことは、円の重なりを大きくするために取るべき手段は何が最も良いのか。それを見極める思考の転換だ。
それは従来どおりの日本式の方法でも構わない。米国式でも構わない。韓国式でも構わない。それぞれとの言語の間で必要となる方法は異なってくる。そのことを知っておくことが重要だ。
以前コロンビア大学のビジネススクールでエグゼクティブMBAのプログラムを受講したことがある。そこには、17国籍45人の人間が集まってきた。平均年齢は42歳。その彼ら彼女らが最も悩んでいることは何か。それはコミュニケーションだった。
彼ら彼女らの会社はどこもグローバルに展開している企業ばかりだ。部下が異国の人間であることなど当たり前の世界だ。突如、外国人の上司が赴任してくることも多々ある。また自らが突如外国の支社長として赴任し、10を越える国籍から構成される100人の部下を持つような、そういう立場になる可能性もある。

そういう状況を生き抜くためには、お互いの円がどのようなものであるのか。それを察知する能力が必要となる。人や民族が違えばその円の重なりを大きくする方法が違うということを認識していることである。そのうえで、どのような円が前に立ちはだかろうとも、怯まずに円の重なりを大きくしていくことを実行に移すことが求められる。
グローバリゼーションの本質とは、言語と言語のギャップ、文化と文化の狭間、それをどうにかコミュニケーションをとることで、埋め合わせるという経済合理性から考えれば極めて非効率的な作業と思えることに心血を注ぐ。そういうことなのではないだろうか。
そうした非効率な作業と思える問題こそ、立ち向かうべきものなのではないだろうか。

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