2012年8月11日土曜日

4.3 竜馬が目指した明治維新の共通認識



イタリアのP&Gでビジネスユニットディレクターを務めるフランチェスコ・アレバに聞かれたことがある。なぜ日本や日本人は閉鎖的なのかと。イタリアという国は16世紀にルネッサンスによって芸術が爆発した。しかし、それもイタリア一国で成し遂げられたことではない。様々な国から多様な人間をフィレンツェやローマに集めることで、知と美が核融合を起こし芸術の都ができあがった。日本にはソニーやパナソニックなど20世紀の芸術と呼べる革新的な製品を次々と世界に送り出す会社がたくさんある。それなのになぜ、日本と日本人は閉鎖的なのかと。おそらくこれは多くの外国人が持っている疑問だろう。
世界の中で日本という国は未だに理解されていない。私はフランチェスコに対して日本の鎖国の歴史を披露した。日本という国は1637年から1867年まで240年間鎖国していたこと。貿易は限られた港でのみ行われたこと。しかし、その240年間は日本という国では大きな戦乱は一度も起きなかった。他国からの侵略も一度もなかった。人類の歴史の中で240年という長期にわたり平穏な時代が続いた国というのは、日本を除いて他にないのではないか。その平安の中で、人々は学び、芸術を花開かせた。19世紀の江戸は人口100万人を超え、ほとんどすべての子供たちが読み書きをすることができた。こうした近代化した都市は世界のどこにもなかったのではないか。当時の最先端都市ロンドンをも凌いでいた可能性が高い。ゆえに日本人のDNAには鎖国の中で国を発展させていくという強烈な成功体験がある。まず自国の中で粛々と考え、その上で他国と対話をしていく。それが外から見た場合に閉鎖的に写るのかもしれない。
こうした日本の歴史を説明すると、フランチェスコは非常に感銘を受けていた。そんな歴史が日本にあったとは、まったく知らなかったと。日本の歴史を学んでみたくなったとまで言ってくれた。
江戸幕府や鎖国という日本で教育を受けたものならば誰もが知っている事実を外国の人たちは知らない。当然だろう。私もイタリアと言えば、ローマ帝国とルネッサンスとレオナルド・ダ・ヴィンチ、そして美味しいトスカーナワインくらいしか知らない。何事も物事の始まりは、こうした共通認識を持つこと。Building Common Groundを構築することから始まる。
260年以上平穏な世の中が続いた江戸幕府が終わりを告げようとしたころ、維新の志士たちが立ち上がり国は乱れた。時に刀を交えて、時に議論を戦わせて、維新の志士たちが命を賭して行ったこと。それもBuilding Common Groundだ。公武合体か尊皇攘夷か。江戸幕府の思惑。朝廷の思惑。諸藩の思惑。米英蘭などの諸外国の思惑。それぞれの思惑である円は、まったく重なり合うことがなかった。
今の世と違い、まったく情報が流通することはなかったからだ。異国語を理解できる日本人など、ほんの一握りだけだ。薩摩と長州という今で言う山口県と鹿児島県の間ですら、人々は分かり合えなかった。
多くの維新の志士達が武力を持って、違う円(思想)を潰しにかかろうとしたとき、円の重なりを必死になって作ろうと、Building Common Groundに腐心したのは坂本竜馬なのだろう。
坂本竜馬は土佐藩の下級武士の出身で、1836年(天保6年)に生を受け、1967年(慶応3年)31歳の若さで暗殺された。大政奉還からわずか1ヵ月後のことだった。
今でこそ坂本竜馬は有名であるが、生前坂本を知る人はごく限られた人だったと言われている。現在の坂本竜馬像は、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に依拠するところが大きいのだろう。実際の彼の活躍についての真偽の程は、歴史家の研究に譲るとして、ここでは一般的に捉えられている坂本竜馬像を基に語りたい。
多くの活躍を残した竜馬ではあるが、26歳の時に土佐藩を脱藩するまで、さして大きなことを成し遂げたわけではなかった。それまでは北辰一刀流を学び、22歳の若さで免許皆伝を受ける。剣術に明け暮れるどちらかといえば、この時代のごく一般的な武士の姿であったと思う。
転機を迎えたのは、1862年の12月に勝海舟と出会ってからだ。竜馬は、勝海舟を暗殺するために勝の下を訪れた。しかしその場で転進して、勝の弟子となる。
竜馬は知る。世界の広さを。世界には自分の知らないこと。自分の知らない様々な円があることを。円の存在すら知らない。円の重なりなど考えようはずもない維新の志士たち。彼らをこのままみすみす戦乱の世に散らすのはあまりにも忍びない。そこから竜馬は動き回る。まさに竜神の如く、幕末の世を”Walk the talk”していくのだ。
坂本竜馬の最大の功績として有名なのはなんといっても薩長同盟だろう。1866年(慶応2年)の1月に、坂本竜馬の斡旋で長州藩と薩摩藩の同盟が結ばれた。それぞれの代表である桂小五郎と西郷隆盛を引き合わせた格好だ。このときすでに、この二藩は日本の中でも非常に重要なポジションを占めていた大藩であった。この時、竜馬は桂に求められ、盟約書に裏書を書いている。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えた格好だ。竜馬がいかに信頼を得ていたかがわかる。その西郷隆盛は竜馬を評して次のような言葉を残したと伝えられている。「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」

この薩長同盟の他に注目したいことがある。1867年(慶応3年)の4月に起きた「いろは丸沈没事件」である。
いろは丸は、坂本竜馬が率いる海援隊が所有する蒸気船で160トン、3本マストを備えたスクリュー推進型である。いろは丸沈没事件とは、いろは丸と紀州和歌山藩の明光丸とが衝突し、いろは丸が沈没してしまう事件のことを指す。明光丸は887トンで、いろは丸の約6倍の巨大な船だった。
この事故には、3つの日本初の特徴がある。①この事故が、日本初の蒸気船同士の衝突事故である点。②航海日誌を用いての事故検証が行われた点。③当時の航海における国際法を解説した翻訳書「万国公法」に則った交渉が行われた点。
紀州和歌山藩といえば、徳川御三家で徳川吉宗を輩出した名家である。そこを相手取って、一介の組織(貿易結社、日本発の株式会社とも言われる)が賠償請求を行ったわけである。竜馬の政治的な対応力、交渉力に加えて、土佐藩の後藤象二郎も加わり、結果として7万両の賠償金を勝ち取ることになる。
「万国公法」が日本に輸入されたのは1865年から66年と言われている。その普及を推進したのが勝海舟であった。今後世界の海に出て、列強の会社と渡り合うことを夢見ていた坂本竜馬。対等の交渉に持ち込むためには、国際的に通用するルールを理解し、それを使いこなす必要性を強く感じていた。公武合体か尊皇攘夷かという自国内の事情ばかりでなく、いかに列強の諸外国と渡り合っていくべきか。それを見据えた行動だといえるだろう。
諸外国から見れば、まだ日本という国がどういう国なのかということは理解されていない。そうした中で、日本国内で様々な内乱がおき、1863年には薩英戦争も起きている。竜馬としては、どうにか諸外国との間で、共通認識が持てるもの、拠りどころとできるものが必要だったといえる。それが、「万国公法」だった。
竜馬は、御三家紀州和歌山藩と言えども一歩も引かなかった。「万国公法」というものが日本の中では、まだ認知が低い時代であった。にも関わらず、これからの世界の海での常識となる「万国公法」に則って賠償金を支払うべきだ。竜馬はそう主張した。
分かり合えない者同士の間で、交渉ごとを進めるには、如何に共通認識として理解できるものが必要か。このとき竜馬はそのことを痛切に理解していたと思われる。

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