2012年8月13日月曜日

5.4 ウェブ脳へのシフト



ウェブが本格的に普及したのは1995年。ブロードバンド化によってあらゆる情報が蓄積され、閲覧され始めたのが2001年。ブログやSNS、動画投稿型サイトの出現によって、不特定多数の人々が情報を発信し始めたのが2004年。そして、2009年現在、ブログを開設したり、SNSに登録している人は数千万人に及ぶ。10代から50代、60代まであらゆる人がウェブを情報の獲得と蓄積をするツールとして日常的に使いながら暮らしている。

では、この10年で「読む量」と「書く量」はどちらが相対的に増加しただろうか。私は間違いなく「書く量」だと思う。いやいや「読む量」だとお答えになる方もいるだろう。この10年で最も大きな変化は、インターネットと携帯電話の爆発的な普及だ。インターネットはダイヤルアップのナローバンドから、光ファイバのブロードバンドへと進化した。映画さえも数分でダウンロードが可能となっている。携帯電話に至っては、日本中どこにいようともメールもウェブサイトの閲覧も可能である。今やその処理能力はパソコンとほぼ同等だ。それに加えて、googleを代表する様々な検索技術が広まり、あらゆる情報に容易にアクセスできるようになった。
「読む量」が多いという感覚を持っておられる方は、これだけ容易に情報が取り出せるウェブに日々触れているためだろう。確かに目の前を流れる情報量はウェブがない時代に比べて格段に増したと思う。しかし、実際に読む量はどうだろうか。ウェブがない時代、目当ての情報を発掘するために、どれだけの回り道をしたことか。そのためには、相当量の情報を読む必要があった。
それに対して、ウェブとは獲得したい情報を効率よく得ることができるツールである。検索することで、目当ての情報に関連する情報だけを抜き出して得ることも容易となった。ウェブがない時代に比べて、圧倒的に効率良く獲得したい情報を多く獲得しているのである。そのために、読む量が増えたと錯覚しているにすぎない。実際のところ、読む量というのは年々減ってきているのではないか。特に、最初の一文字から最後の一文字までを読むという旧来のやり方は誰もしなくなった。斜め読みどころか、拾い読みをしている場合が多い。

私の実家には、大百科事典があった。総カラー装丁で25巻くらいのものである。小中学校の頃、よくこれを読みふけっていた。そのころ本や小説は全然手に付かなかったが、こうした知らないことが載っているものには飛びついていた気がする。岩波書店の広辞苑も疑問がふと沸く度に引いていた気がする。こういう本の良いところは目当ての情報を探り当てる過程で、否が応にも他の情報にも目がいってしまうことだ。そのプロセスでは、余計なページに目をやるために、予期しないうれしい発見が度々起こる。
ウィキペディアの日本語版には58万本もの記事が掲載されている(20094月現在)。ゴシップネタや時勢にのった最近の芸能ネタまで網羅しているわけだから、百科事典よりも情報の活用度としては重宝するのかもしれない。そして検索可能である。今の世代、つまりウェブで検索することが当たり前の世界になった以降に物心がついた世代。こうした世代は、一生百科事典というものを手にせず終わってしまうのではないだろうか。
知らないことを知ろうとするときや親に聞いていたことを初めて自分で調べようとするときには、百科事典をとるような子供であってほしい。広辞苑をとるような子供であってほしい。なんだかそう感じてしまう。これは古い世代の考えなのだろうか。欲しい情報に関連する部分だけを拾い読みするだけでは、真の知識は蓄えられないのではないか。

それに対して「書く量」は圧倒的に増大している。パソコンと携帯電話とメールの普及である。まず友人同士で考えた場合、昭和の時代に今ほど手紙を書くことなどありえなかった。特に男同士の場合に、手紙を書くという行為はまずありえない。小学校時代に書く手紙といえば、女の子に書くラブレターくらいのものだ。今の小学生は携帯電話の10キーを使って1分間に100文字くらいは軽く書く(正確には打ち込む)。パソコンにおいてもブログやSNSにおいて、日々様々なことをウェブ上に書き残している。アマゾンで本を購入しようと思えば、その書籍に対する感想や批評が一般の消費者の手によって何件も書き込まれている。
キーボードによって、書くスピードは格段に増した。それはビジネスの現場でも言える。パワーポイントのように扱いやすいプレゼンテーション資料作成ソフトができてからは、人はどんどんと書くようになった。加えて、1分間に20枚も30枚もカラー印刷できるプリンタが開発されてからは、人々はどんどん書くし、どんどん印刷するようになった。
書くという行為は原稿用紙であれ、パソコン上であれ一文字は一文字である。斜め読みはあるが、斜め書きなどというものはない(あればそのやり方はぜひ教わりたいところではあるが)。ウェブの進化によって、書いたものを保存する技術も格段に増した。今人々は信じられない分量の情報を日々書いているのである。

 書く量が増えることで、次に何が起きたか。自分が書いたものを読む人の数が以前に比べて格段に増加した。ウェブのない時代に観た映画の感想や批評を書いたとしても、それを読むのは家族か限られた友人くらいのものだ。不特定多数の人が読むということはなかった。今では思いついたときに書いたものがブログなどで投稿ボタンを押せば、世界中の人から読まれる可能性がある。残念ながら日本語の場合は、日本人が読者に限られてしまう可能性が高いが。
 この変化によって発生した問題がウェブ上の誹謗中傷である。ブログであれ何であれ、ウェブ上に表現したことは、表現したいことの一部を切り出したものであるはずだ。それがなぜだか読み手にとっては、それが記事の投稿者が表現したいと考えることのすべてだと誤解してしまう場合が多いようである。
自分の主張や感想の中のある一部を、自分の気持ちのほんのひとかけらを、ウェブ上に表現しているに過ぎない。舌足らずなものである場合も当然あるだろう。しかしながら、ウェブ上では情報は独り歩きする。デジタルデータでネットワーク化されているため、いつまでたってもこの膨大な情報の海であるウェブ上をゴーストシップのように徘徊することとなるのである。
 この乖離は、書き手と読み手のギャップに問題がある。書き手はウェブ上で書く場合は、乱暴な表現で言えば「垂れ流し書き」しているに過ぎない。容易に情報を発信できる媒体であるウェブを活用して、ある瞬間に頭に過ぎる言葉を表現しウェブ上に保存しているに過ぎない。それに対して、読み手は、求める情報を探索する手段としてウェブを活用する。そのため、そのある一部分が切り出された文章を情報の全体と判断し、拾い読みするわけである。
この認識のギャップが誹謗中傷を生む。舌足らずな説明だと批判をする。考えが足りないと文句をつける。どうしてこうした記事を書くのか理解に苦しむと揶揄をする。こうした冷酷な反応が溢れかえる。いわゆる炎上するという状態だ。茂木健一郎さんは「欲望する脳」の中でこうしたウェブ上の行為を「野獣化:自分の欲望を無条件に肯定し、それを他人に対して表出することをためらわない傾向」と表現している。
これはまさに、昨今のウェブ上における表現の氾濫を端的に表している言葉といえる。「表現したもの」という固まりは、人によっては自分の分身のように大切に扱いたい衝動にかられる。しかし、そう考える人にとっても、分身ではあるが、それでもそれはあくまで表現物であり、自分のすべてではないと考えている。野獣化したウェブ利用者たちは、ウェブ上に散らばる無数の、「ある人の分身」をあたかもその人の全人格であるがごとく捉え、そこに対して野獣としての牙(自分の欲望を無条件に肯定し、それを他人に対して表出すること)を剥く。

赤ん坊が自己と他者を見極める過程は、手や足によってさまざまなものに触れ、触れられた感触を受けるものが自己、触れられた感触がないものが他者と認知する。そうしていくことで、この世界の中に自分ではない何者かが存在することを学ぶという。
また、泣くことでミルクやご飯を要求することができることを学ぶわけだが、その切なる願いが、100%自動的にかなえられるものではないということに気づく。つまり、母親が他の用事に気をとられ対応できないというようなときだ。これによって、他者という存在は、自分には制御できないもの、制御できない領域にある存在だと気づく。そこから家庭内、幼稚園、小学校と実世界を生きていく中で、社会性を手に入れ、利己的に考える。時には利他的に配慮し、何がよくて何がよくないかということを、経験値として獲得していく。
ウェブはいつでもどこにいてもアクセス可能である。そして地理的にどんなに離れていても、交信し合うことが可能である。情報を引き出すときには非常に他人が身近に感じる。しかしながら、情報をウェブ上に入力する際は、とたんに人との接触が間接的で遠いものと感じてしまう。そのため、ウェブを使う人たちの多くは、まだ何が良くて何が良くないのかということの判断がつきにくい。
私も以前自分のブログ上である書籍についての批評を何気なく書いたことがあった。そうすると何日か後に、本の著者からお詫びのコメントを頂いた。私のブログの使い方は、自分のメモ代わりに何気なくつけているものだった。だがそれも一般に公開されているわけで、著者が見る可能性は十二分にあるものだった。本を読み終わったとき、友人の前ではその本が面白かったのか、面白くなかったのか。そうしたことは大いに語り合うべきだと思う。ただ、著者を目の前にして、ぞんざいにこの本は面白くなかったと言えないのと同様に、そうしたことを舌足らずにウェブ上に残すべきではない。私はそれ以来、むやみな批判はなるべく避けるようにしている。
ウェブ上に様々な情報を書き込む。ウェブ上から様々な情報を引き出す。ウェブ上にあるから敢えて覚えない。ウェブというツールを自らの2つ目の脳として位置づけ、それを活用していくことがこれからは求められる。
その際に、情報をウェブ上に書き込む場合は、なるべくネガティブな書き方は慎むことが望ましい。批評をする場合は、批評される立場になり得る人が目の前にいるかのような配慮が欲しい。

情報を引き出す際には、その情報すべてを鵜呑みにしてはいけない。その情報の出し手は、自らの思考のすべてを書ききったつもりはなく公開されているものと理解するべきだろう。ウェブ上の情報は当然自由に扱えるという意識ではなく、情報を頂いたという立場で接したい。
ハードディスクやフラッシュメモリなどの記憶装置の価格は年々低下している。最近では2GBSDカードが数百円で手に入る場合もある。ウェブ上に情報を保管しておくことは、無料に等しい。もはや1300グラムという限られた人間の脳の中に、必死に情報を詰め込むよりも、如何にウェブ上の記憶空間をうまく活用するかということが重要となる。
何をリアルな自分の脳で記憶し、何をウェブ上の第二の脳としてのウェブ脳に記録しておくのか。脳とウェブは使いようである。

目次に戻る

0 件のコメント: