2012年8月13日月曜日

5.6 言葉にする直前のもどかしさと心地よさ



言葉にしなければ伝わらない。書き表してみなければ、誰にも気付かれない。
そうはいうものの、言葉になる前段階で私たちは考えに考える。想いに想う。頭の中で試行錯誤しながら、言葉にすることを想像しているとき、イメージとしては非常にもやもやした絵画のようである。だけれども、時にはその言葉になる直前のもやもやした状態のものこそ、何よりも上手く言い表されているのではないだろうかという錯覚を覚えるときがある。
今この頭にあるものを、言葉にしてしまうとせっかくの良さが損なわれてしまうのではないか。非常に完成度高くまとまっているこの想いがチープなものへと変化してしまうのではないか。そんな気すらしてくるときがある。
もどかしさと心地よさが同居しているような感覚だ。
そういう感覚を楽しんで、思考を続けることは非常に良いことだと想う。敢えて急いで言葉にしてみる必要もないのではないか。急いで文章に起こしてみるまでもないのかもしれない。考えれば考えた分だけ、そのことの周辺部分へと思考は拡大する。たとえ未完成の状態だとしても、いつか言葉に出そうとしたときに、非常に力強いものに変貌している場合もある。
そうは言っても人の常。せっかく頭の中で考えてきた良いイメージを忘れてしまうことがままあるわけだ。それを防ぐためにはやはりメモが必要だ。ポストイットでもノートの端でもスケジュール帳でも構わない。もやもやとイメージしているそのことを思い出すきっかけの単語でもいい。そういうメモを残しておくと良い。
まだ言葉にはできないけれど、頭の中でそのアイデアというものを暖めておきたい。暖め続けるためには、脳がそれを呼び覚ますことができるきっかけを残しておくことが必要だ。

暖めておくと、もうどうにも言葉として表したくて仕方のない衝動に駆られるときがくる。書き表したくて仕方のない欲望に駆られるときがくる。そのもやもやとしているが、頭の中では完璧と思えるアイデアというものを、うまく言葉に変換するためにはどうすることが近道か。前段の「イノベーションは模倣から始まる」でも述べた内容に繋がることなのだが、それもやはり組み合わせなのだ。
私は時間を持て余す出張中の飛行機や新幹線の中で、次のようなことをよくする。今まで書き残してきたメモをもう一度通して読んでみることだ。
それはこれまで呼んできた本から削り取った感銘を受けた言葉である場合もある。顧客や友人から聞いた心に残った言葉をメモしたものである場合もある。言語化する直前の、まだうまく言い表すことができない漠然としたアイデアを考えるためのきっかけを表現した言葉である場合もある。
そうしたアトランダムなメモを一つの物語のように始めから一つずつ拾い上げ、読んでいくのだ。何度かその作業を繰り返すと、繋がりのなかったはずの物事の間に、突如強固な関係性を見出すようなときがたまにある。
まさに頭にパッと光が瞬いて思いつくような瞬間だ。
心に刺さるキャッチコピーを考えたい。感動するような映画のセリフを考えたい。落ち込んでいる友人にかけるべき言葉を考えたい。明日の報告会で社長に自分のことを覚えさせる気の効いたつかみの一言を考えたい。
そういう時に、家に閉じこもり、あらゆる窓を閉じる。外界からの影響を取り除いて一心不乱に考え込む。そのことだけに集中する。そういう方法を取る人の方が多いのではないか。しかし、残念ながらそういうアプローチは良い結果を生まないのではないだろうか。そういう場合に悶々を一人で考えるくらいならば、シャワーでも浴びて気分転換した方が良い。

ポアンカレ予想というものがある。1904年にフランスの数学者アンリ・ポアンカレによって提起されたものだ。これは、「n次元ホモトピー球面はn次元球面に同相である」というものだ。中でもn=3のときの証明が100年間なされなかった。
そうは説明を受けてもなんのことであるのかわからない。簡単に言い換えると、地球から宇宙船が飛び立つとする。宇宙船には極めて長い紐をつけておく。宇宙船が宇宙を1周して帰ってきたとする。その後で、ロープの両端を引っ張って行き、すべてのロープが回収できるとする。そのとき、宇宙の形は概ね球体であるといえる。そういう予想だ。
一般人からするとなんとも素っ頓狂な謎かけのように感じるが、これはフェルマーの最終定理と並ぶ数学の難問なのである。最終的に2002年から2003年にかけてロシアの数学者グレゴリー・ペレルマン氏が証明した。ただし、この証明が合っているかどうかを検証するために世界の数学者がチームを組んで3年を要してようやく確認された(と考えられている)。それほどの難問だ。
ペレルマン氏の他にも、天才と言われた何人もの数学者達がこの問題に挑戦した。数学は基本的には頭の中と紙で取り組める。天才がこうした難問に取り組む際には、あらゆるものをシャットアウトしてひたすら白いノートに戦いを挑むことになる。来る日も来る日も一人暗い研究室に閉じこもり、孤独な戦いが繰り広げられる。家族との団欒、ランニングなど体を動かすことによるリフレッシュなどそうしたものすべてを犠牲に捧げるほどの孤高の戦いだ。こうした戦いの過程で、何人もの天才数学者達が、日常生活に支障を来たしたり、精神異常になってしまった。ポアンカレの亡霊にやられたとでも表現できるかもしれない。

私たちの生活の中で、ここまで埋没するような難問はそうそうないとは思う。そうは言っても、解決策が思い浮かばずに眠れない日が何日も続くということがあるだろう。そんなときは想いに想い、考えに考えることだろう。それでもどうにもうまくいかないときがある。その悩みを言葉に表そうとも、表現しきれないときがある。そんなとき、次に起こすアクションは一人で閉じこもって行うべきではない。
まずは様々なメモを見返す。人から影響を受けて、書き記したメモだ。読書でも、話でもなんでも良い。そとから影響を受けた情報に目をやるのである。
次は、誰かと話すのだ。上手い言葉になっていなくても良い。その言葉になる直前の考えを、誰かと議論をするのだ。言葉にならない考えを無理やり言語化しようとしたときに、あと何を考えれば良いのかということを閃く場合もあるだろう。話した相手からの質問によって、今まで自分では気付かなかった盲点が明らかになる場合もあるだろう。
人間、一人だけで考えをめぐらせたとしても限界がある。相手からアイデアをもらう必要はない。ただ話しを聞いてもらうだけでも時には良いかもしれない。それが今の現状を打開するための一番の近道であったりする場合が非常に多いのだ。

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