2012年8月7日火曜日

1.4 お笑いにおける2つの円



お笑い芸人についても、この2つの円で説明がつく。どのお笑い芸人も一発芸というか、ほんの数秒程度のネタというものを持っている。昭和時代で言うならば、間寛平さんの「かい~の」や谷啓さんの「ガチョーン」そして加藤茶さんの「カトちゃんペ」などがあるだろう。最近だとエド・はるみさんの「グー」やオリエンタルラジオの「武勇伝」などがあるだろう。その他残念ながら流行らなかった様々な言葉や流行ったものの1年足らずで人知れず消えていった言葉を記憶している方も多いと思う。
こうした芸人の活動で共通しているのは、誰しもが駆け出しの際に、何かしらのシンプルでかつ数秒のネタを持っていることである。これが意味するところはなにか。つまりは、駆け出しの芸人のもつ円と、我々テレビの視聴者が持つ円は、まったく重なり合わないところからスタートすることを意味する。
それゆえに、少しでも重なり合う部分を作るために、芸人は数秒で印象付けることができるネタを考えるのである。まずは、そうした単発ネタをやる芸人、という円の重なりを作ることに腐心するわけである。
お笑い芸人の話は確かに面白い。中には面白くないものもあるが、話の面白さでお金をもらっているプロとして、やはり面白い。ではその面白さはどこからくるのか。

普段私たちは仕事の同僚や学生仲間とよく食事に行ったり、飲みに行ったりする。その際に咲かせる話も十分に面白い。笑いは絶えないことも多いと思う。社会人になって5年後くらいに、大学生時代の仲間と飲むと面白い。そういう場面で話題になるのはなんだろうか。そう昔話だ。学生時代に体験したことは、お互いの円の重なり合っている部分なのだ。社会人になって以降に体験したことは、その学生時代の仲間と飲んでいる同窓会の場では、重なり合っていない部分なのである。
話の面白さとは、まずは重なり合っている部分の話題であることが重要である。そうでなければ、いったい何の話なのかがわからない。その上での面白さとは、意外なことを知るときである。重なり合った部分の話題において、お互いがこれはこうだろうと必然的に思い込んでいることがそうではなかった場合、そこに話の面白さがある。
例えば大学時代は奥手で、何事も決めかねてうじうじと考え込むタイプの山田君(仮称)が、社会人になってからは今じゃ課長で部下への指示出しで怒鳴り散らしているらしいぞ。こうした重なり合った円の部分から飛び出してくる意外な一面は非常に面白い。

話を戻すと、芸人というのは、こうした普段一般の人でも体験している話の面白さというものを、テレビと視聴者という1対1000万人の構図の中でやり遂げようとしているわけである。
お笑い芸人の重鎮明石家さんまさんを例に取ると非常にわかりやすい。かれこれさんまさんは20年以上日本のテレビのお笑い界の中でトップを走り続けている。そうした時間の経過とともに、明石家さんまという1人の人間と私たちとの間には大きな円の重なり部分ができてしまった。我々はさんまさんが離婚したということも知っているし、子供の名前までも知っている。ここまで重なり合う円が大きいと、面白い話題の作り方もやり易くなってくる。
離婚についての自虐ネタを披露する。その際に、これまで共通して持っていたと思われる認識とは違う側面を織り込むわけである。明石家さんまという人間がなぜこれほど長期にわたってお笑い界の中に君臨できているのか。それは、さんまさんと我々の間にできた重なり合う部分が何であるのかを、さんまさんが知っているためだ。そして、その重なり会う部分の中で、これは常識だろうと思う部分を適度に裏切っていくのである。それを面白おかしく話題にする。その繰り返しである。
こういう状態を夢見て、駆け出しのお笑い芸人は、とにかく視聴者との重なりを少しでも大きくしようと努力するわけである。重なりあう部分が、ある一定以上の大きさになりさえすれば、お笑いネタは今よりもやり易くなる。そう信じて活動を続けている。

映画やドラマにおいても、同じことがいえる。最近1つ言えることはシリーズものが多いということだ。米国のテレビドラマなどはその最たる例だろう。キーファー・サザーランドが演じる特別捜査官ジャック・バウアーとテロリストとの戦いを描いたドラマ「24」はもうシーズン7が公開されている。150話以上の超ロングストーリーである。日本においても「踊る大捜査線」という大ヒット映画から、スピンアウトした形で「交渉人 真下正義」など何本も映画化されている。
なぜシリーズものが横行するのか。これもやはり2つの円で説明がつく。シリーズ化された映画やテレビの主人公と私たちの間に大きな重なりが存在するからである。重なりがあるからこそ、それを裏切るストーリー作りが簡単となる。シリーズ一作目は難しい。それはまさに重なりあう部分を作る位置づけとなるためだ。
ジャック・バウアーは非常に優秀な捜査官だ。しかし、すぐにぶち切れてテロリストを拷問するし、射殺したりもする。また、テロリストを倒すという大きな正義のためならば、躊躇せずにビルや大使館などに不法侵入をする。シリーズを見ていく中で、私たち視聴者は、そうした無鉄砲な人格という知識としての重なり合う部分を形成していく。そういう認識があるからこそ、時折見せる脆さや弱さ、そして孤独さに心奪われるのである。

138回直木賞を「私の男」で受賞した桜庭一樹さんは、売れない時代に編集者から次のようなことを言われたそうである。
「売れる本ってのは、7割の人が共感できて、2割の人はまぁそういう人もいるかって思えて、1割の人が変な話って思ってくれる。そういうもんですよ。」
これはまさにここでいう2つ円の話をしている。話の内容として7割程度に重なりを感じることができるものが良いと。その重なり合う部分をうまく活用して、ストーリー展開をいかに、裏切っていくか。そこがまさに作家の腕を問われるところなのだろう。
話が面白い人は、何が重なり合っている部分で何が重なりあっていない部分なのかを常に意識している。重なり合った部分の中からいかに裏切るか。何を新たに重なり合う部分に持ってくるのか。
今、目の前にいる人との間にどのような重なりが存在するか。そして、重なり合っていないどのような違いが存在するのか。それを想像して話をすることと、それを意識せずに話をするのとでは大きな違いが出てくるだろう。

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