2012年8月16日木曜日

6.8 色褪せないものを探し続ける旅



以前ジャズトロンボニストのクリス・ウッシュボーンの演奏を聴く機会があった。彼はニューヨークなどのジャズバーでパフォーマンスを提供するかたわら、コロンビア大学のアシスタントプロフェッサーとしても教鞭を振るっている。
彼はミクロネシアなどの島国やカリビアン諸島など世界中をめぐり、これまで人類が作り出してきた様々な楽器の研究を行っている。

ジャズというものは2回と同じパフォーマンスはない。トロンボーン、トランペット、ピアノ、コントラバスなど各パフォーマーのその日のコンディションや気持ちによって、パフォーマンスは微妙に変化してくるそうだ。
私はクリスに次のような質問をぶつけてみた。ジャズというものは2度と同じパフォーマンスがないことは理解できる。しかし、その微妙に変わり行くパフォーマンスは、すべてクリスの感性が追い求めた結果だと思う。では、パフォーマンスや音というものに対する嗜好というものは、後天的なものなのだろうか。それとも先天的なものなのだろうか。DNAレベルで、身体が反応する音というものが存在して、クリスが日々パフォーマンスをすることによって、探しているものはそういう音なのだろうか。もし、今日のパフォーマンスを生まれたばかりのころのクリスが聞けば、DNAレベルでそのパフォーマンスをすばらしいと思うだろうかと。

クリスの答えはシンプルにYESだった。

「音楽というものはDNAに訴えかけるものだと私は考えている。なぜなら、私は世界中の国々や島々をめぐって1つ共通点を発見した。それは、どのような偏狭の島であれ、どのように少数の民族であれ、そこには必ず音楽があった。楽器があった。音があった。すべての民族は、おのおのがDNAレベルで感じる音を追い求めた結果として、それぞれの民族で楽器を編み出したのではないか。そう思えてならない。だから私はステージに立つ度にいつも追い求めている。私のDNAが反応する音を」

私も小さいころ少しばかりピアノをかじっていた。たいしてうまいわけでもないのに、練習する曲にはある種こだわりがあった。自分の感性が反応しないと弾く気にならなかったことを覚えている。
ジャズや音楽、さらには演劇などのパフォーマンスをファンに向かって提供するプロフェッショナルの場合、どうなれば成功といえるのだろうか。見に来てくれた観客の数か。見に来てくれた観客の反応か。自分なりの納得できたパフォーマンスか。それとも自分のDNAが反応したときか。
ある一定以上、客足が伸びる段階においては、自分の成長度合いや成功度合いというのはなかなかにわかりにくいものなのではないかと思う。本物の音楽というものは、色褪せない。数百年の後にも、人の心に響く旋律というものが存在する。ただこうした色褪せないものは、なかなかに定量評価しにくいものだ。極めれば極めるほど、自分がどう進化したのかがわかりづらくなる。こういうプロフェッショナルの場合、「できることを非常にうまくやる」ことこそがプロフェッショナルの真髄ではないだろうか。

皆さんは働いている中で、次のようなことを考えて悶々とした日々を送っている人はいないだろうか。現在の仕事が非常につまらなく思えてしまう。良く言えば、できない仕事がなくなったように感じている。悪く言えば、やりたい仕事をこの会社では手に出来ないように感じている。この会社にこのまま身をおいていていいのだろうかと感じている。この仕事にはいったい価値があるのだろうかと感じている。今自分は成長しているのだろうかと感じている。
こんなことを感じているのは、なにもあなただけじゃない。すべての人が少なからずこうしたことは感じている。

そういうときは二つの思考の転換が必要ではないだろうか。一つは、自らの成長度合いというものを改めて見つけようと努力してみることだ。ある程度仕事ができるようになったとき、自分の成長は止まってしまったのではないかと考えてしまうときがある。今の仕事はもはや自分を成長させなくなったのではないかと、思ってしまうときがある。
そんなときにも、必ずどこかに自分を進化させていってくれている要素があるはずだ。進み具合がわかりづらい物の中にも、進化しているものはある。成長が止まったから現在の心境にあるわけではなく、成長したからこそ、そうした変化がわかりづらい局面にまで達することができたと思うべきだ。できる仕事をうまくやることには、大きな付加価値があるのだ。
二つ目は、自分自身を成長させることが何も自分の成長に繋がるわけではないということだ。自分に関わる人すべてを成長させることにフォーカスを移すタイミングなのかもしれない。人として、人を喜ばすことができることほどすばらしいことはない。マーケティングスキルやファイナンススキルなど自分の内面のスキルを磨くばかりが自分の成長に繋がるわけではない。

感情労働という言葉がある。肉体労働は、時間当たりの肉体運動を付加価値とするビジネスだ。それに対して、感情労働とは、ある時間の間、ある感情にいることが付加価値となるビジネスがそれにあたる。

例えばコールセンターのオペレーターだ。お客様窓口として電話番号を公開しているサービスや製品は少なくない。そうしたところにかかってくる電話の内容は、何も製品の使い方や、サービスの営業時間などの問い合わせばかりではない。ただひたすらにクレームを怒鳴りつけるようなそういう消費者も中にはいる。その場合に求められる感情労働は、そうしたクレーマーと化した消費者が落ち着くまでの聞き役であり、謝り役なのだ。

他の例では、看護師もこうした感情労働にあたるだろう。看護師の場合、夜勤などもあるため、肉体感情労働と呼ぶべきかもしれない。入院患者の中には、それほど深刻な状況というわけでもないのに、度々ナースコールのボタンを押して看護師を呼びつけるような人もいる。対応が遅ければ、いったいこの病院の方針はどうなっているのだと医者を呼びつけるような例もあるだろう。

こうした仕事の場合、そうした役回りでいることに非常に大きな価値があるのだ。ある種自分の本来の人格とは切り離して振舞うような場合があっても良いかもしれない。世界中の何者にも代替されることはない。その時に、その場所にいることに非常に大きな意味がある。その時にその場所にいるからこそ、周りの人に喜びを与えることが可能となる。
営業成績の受注額や製品の販売台数という定量的でわかり易い指標で自らの成長度合いを測ることも一つの方法ではある。受注額に対して、生産性を挙げて利益率を上げることにも大きな喜びはあるだろう。そうしたものを追求する時期があってもそれは非常に良いことだ。
ただ、成長というものがそうしたわかり易い指標を用いて、測ることができない場合も多い。
そうしたときには、定量評価が不可能でも良い。進む具合が見えにくいものでもいい。自らの個別・固有な感性を拠りどころにすることで、初めて成立するような特徴を持つ仕事を見つけ出すことに注力してみることだ。必ずあるはずだ。それはそうやすやすとは色褪せないもののはずだ。

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